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 迷いの森 

 第二章   廻る運命の歯車  4 



その夜遅く、紗耶は母屋にある圭市の書斎を訪ねようとしていた。
この部屋は元々祖父が書斎として仕事用に使っていた所で、母屋の端にある。勝手口から中へ入り、長い廊下を歩きながら、紗耶は問題をどう切り出すかを考えあぐねていた。

今日の昼間、引越しの荷造りをしていて気付いたのだが、彼女の日用品や衣服はすべて主寝室とそれに続くクローゼットに移されてしまった。だが、彼女は圭市がどのベッドルームを使う気でいるのかを知らなかったのだ。
当たり前のことだが、当面彼と同じ寝室を使うつもりはない。
改装が間に合わず、今は間に合わせに来客用のベッドルームを使っている圭市だが、もし、彼が今後主寝室を使うつもりならば、自分がどこか他の部屋に移らなくてはならない。
彼はこの家の次の主として迎えられる人だ。それくらいの気遣いは自分の方がすべきだ、と彼女は考えたのだ。



奥まった場所にある扉が僅かに開き、薄暗い廊下に室内から一筋の光が差している。ドアに近づくと、来客でもあるのか、書斎から話し声が聞こえてきた。
圭市が帰宅していることは使用人から聞いていたが、誰か他の人もいるのであればノックしても良いものかどうか、紗耶はドアの前で一瞬躊躇った。
その時だった。
父親の低い声と、会話する圭市の声が耳に飛び込んできたのだ。

『まったく、御大のやることは。死んでなお、己の力を誇示しようというのか』
怒りを含んだ父親の声にびくりとした紗耶は、しばらくその場に立ち竦んだ。
薄く開いたドアから、彼らの会話が洩れてくる。
その内容は、あまりにも理不尽で、身勝手なものだった。


数年後、自分が結城の全財産を相続することになっているのを知っただけでも驚きだが、それを阻むためだけに子供を「産ませろ」とは、何と言う傲慢。
しかし、もっとショックだったのは、父が母親にしたであろう仕打ちだった。元より父親から愛情など受けた覚えもないが、よもや自分が生まれたのはその非道な行いの結果だったとは、思いもよらなかった。
だから母は父を嫌ったのだろうか。
おそらくは、結城の権力を手中に収め、自分の力を誇示するために、ただそれだけのために、身体の弱かった母に無理やり紗耶を産ませたであろうこの男を。


震える手が突いていた壁を滑り、微かな音を立てる。
紗耶は、はっとして目の前のドアを見つめた。中の会話が途切れ、誰かがこちらに近づいてくる。
咄嗟に向かいの部屋に滑りこみ、音もなく扉を閉める。直後に廊下を挟んですぐ前の書斎のドアが開かれ、誰かが出てきた気配がした。
紗耶は身体を固くして息を潜める。辺りは音もなく、自分の心臓が打つ鼓動さえ聞こえてしまうのではないかと思うほどの静けさだった。

お願い、このまま気付かないで。

今彼らの前に引き出されたら、きっとひどく取り乱してしまう。こんな状態で父親を見れば、何をするか自分でも分からなかった。


彼女のささやかな願いが通じたのか、暫くするとまたそのドアが軋み、今度はきっちりと閉じられた音がした。
紗耶は隠れたドアに背を預け、その場に座り込んだまま暫く動けなかった。身体が震え、冷たくなった手足が言うことを利かない。

やっぱり、こういうことだったのだ。

最初から裏がある話だとは思っていた。
圭市の語った理由だけでは納得しきれない何かがある、そう感じてはいた。
彼らのその思惑が結城の遺産に…お金に纏わることだと、もっと早くに気付くべきだった。


祖父の葬儀の後、公開された遺言状の内容は、不可解なものだった。
当面のグループの経営は現オーナーの宗一朗に委ねられたが、固定資産や株式、預貯金については現行の維持という以外には何も触れられていなかった。それが原因で一族から不満の声が噴出し、現在のお家騒動の引き金になった。
紗耶も含めて、周囲は既に宗一朗がすべての結城の遺産を握っていると思っていたのだが、今の話を鑑みれば実際は違ったのだ。

父親と祖父の反目は今に始まったことではない。
二人は日常的に対立していて、周囲を混乱させてしまうのが常だった。それは会社内のことだけに関らず、家中においてもそうだ。
紗耶は内心、両親の不仲の原因の一つはこの両者の確執だったのではないかと思っていた。
ただ、父も祖父も同じように、彼女にとっては馴染みのない人たちであり、どちらかに肩入れしたこともなければ、そうしたいと思ったこともない。
総じて自分が生まれた家は、家族の愛情に縁の薄い家系なのだと諦めていた。


だが、淡い期待ではあったが、圭市は彼らとは違うのではないか、と思い始めていた。
彼は紗耶をぞんざいに扱うことはない。多少強引な言動はあっても、何かを聞けば真摯に答えてくれるし、必ず彼女の意思を確認してくれる。
父や祖父の相手をしていて、他人の都合を押し付けられることに慣れっこになっていた紗耶には、それだけでも充分に新鮮な感覚だった。
彼女が不安を訴えれば、軽く抱き寄せ「私に任せてくれればいい」と繰り返し囁く声に、労りと安らぎを感じたのは、愛情に飢えた哀れな子供の浅はかな思い込みでしかなかったのか。

「私…馬鹿みたいね」

この人ならば、一緒にやっていけるかもしれない。
心のどこかでそう思ったからこそ、こんな馬鹿げた話にも乗った。
不安と恐れと苛立ちで磨り減りそうになる神経を、騙しながらも今までじっと我慢してきたのだ。
だが、やはり彼も父親と同じ穴の狢だった。
違うのは、父親が彼女の存在を無視し続けたのに対して、圭市は彼女を懐柔する策を弄したことだけ。
どちらにしても、体よくあしらわれたに過ぎない。

そう思うと、思わず涙が溢れてくる。
救いがたい己の身の上が悲しいのか、巧く騙された愚かさが悔しいのかは自分でもよく分からない。だが一つ言えるのは、もう自分はこのままではいられないということだ。

紗耶は子供のように握りこぶしで涙を拭いた。
泣いている場合ではない。
今しなくてはならないことは、唯一つ。

この結婚を取りやめること。

でなければ、また自分も母親と同じ道を辿ることになってしまう。
母は自分の出生に謂われない追い目を感じていたのか、いつも祖父に従順だった。心の中には数え切れないほどの悲しみや苦しみを抱えていたはずなのに、それでも最後まで、家族に背くことも、ここから逃げ出すこともできなかったのだ。

だが、私は違う。
母を亡くしてから、自分のことは自分で面倒をみてきた。恩を感じるべき人間は身内にはだれもいない。
もしここで周囲に押さえ込まれてしまえば、使い捨ての道具のように扱われた母親の末路のように、自分の行き着く先も見えている。

立ち聞きした父親と圭市の会話が頭の中をリフレインする。
『無理やりにでも従わせるんだ』

嫌だ。絶対にそんなことは許さない。
私は道具なんかじゃない。感情を持った、一人の人間なのだ。
彼らの思い通りになんて、動かされて堪るものですか。

紗耶は唇を強く噛み締めた。
最後まで諦めない。
少しでも幸せな人生を送るために、こんなふざけた計画からは、絶対に逃げ果せてやる。


彼女は待った。
まだ、周囲の目が厳しすぎて動けない。だがそのうちに好機は巡ってくるはずだ。

そして遂にその日、チャンスが訪れた。




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